音づれない【可視化した歌詞の話 〜フルバージョン〜】
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サイトからブログにリンクをはるのを一年間にわたって忘れていたKarimonoです(´・ω・`)
Karimonoなだけにウッカリ者ですね……(;´Д`)

1. はじめに
以前のブログ記事の「可視化した歌詞の話」の内容が論理のはしょり過ぎで分かりにくかったと思うので、そうした瑕疵に(クドい?(^^;)対処するため、図を用いるなどして説明し直そうと思います。
以下は理論的な内容です。
個別具体的な曲だけでなく、「音楽って何?」というような抽象的・基本的なことに関心がある人は読んでください。

2. 歌詞メディアの四類型
我々は歌詞そのものを他の人に伝えることはできません。
歌詞を音声・文字・映像などに埋め込み、音と光の形で受け手に伝えなければなりません。
歌詞の伝達のためのこうした音声・文字・映像などのことを、本テキストでは歌詞メディアと呼びます。

歌詞が「テキストの形で受容されるか」「映像の形で受容されるか」の二つの観点から、歌詞メディアを四つに分類することができます。
以下に図示します。

【図1】歌詞メディアの四類型


図中の@〜Cのそれぞれの類型について、具体例を挙げながら説明します。
・@音声のみ(ex.ライブ、ラジオ、歌詞を見ないでCDを聴く)
・A静止テキスト(+音声)(ex.ブックレットの歌詞を読む、ブックレットの歌詞を見ながらCDを聴く)[注1]
・Bテキストなしの映像(ex.プロモーションビデオ、ライブビデオ)
・Cテキストありの映像(ex.テレビの音楽番組、カラオケの映像)

これら四形式の差異をあらためて整理すると次のようになります。
・@Aは映像なし、BCは映像あり
・@Bでは歌詞は不可視、ACでは歌詞は可視

各類型の技術的な可能性は、@→A→BCの順に推移してきました。
人間が言語を使うようになった時に@が可能になりました。
そして古代に人間が文字を使うようになった時、Aが可能になりました。
最後に、現代の映像技術の発展に伴い、BCが可能になりました。

今日の歌詞は、@〜Cのいずれかの形式で表現され、受容されています。
歌詞の伝達のあり方を次の図のようにモデル化してみます。

【図2】歌詞のコミュニケーションのモデル(並列版)


まず第一段階として、ある人(作詞者)が作詞をして歌詞を生み出します(フェーズ1)。
しかし前述したように、作詞者は歌詞そのものを伝えることはできません。
そこで次に、@ABCの形で歌詞をメディア化します(フェーズ2)。
こうして歌詞は音と光として出力され、受け手である視聴者の目と耳から受容されます。

歌詞は図のフェーズ2の四つのチャンネルを通って視聴者のもとに届きます。
少し説明を加えると、世の中にある歌詞は、それぞれのチャンネルを均等な割合で通っているわけでは全くありません。
「歌詞がそれぞれのチャンネルを通過する割合」に影響を与えるのは、「社会の技術的条件」と「歌詞の作り手・受け手のスタンス」です。
例えば、映像技術がまだあまり普及していない時代においては、歌詞がBCの形式でメディア化されることが少ないため、BCのチャンネルはあまり使われない状態にあります(社会の技術的条件による影響)。
また、ライブを重視し、ライブ活動を活発に行っているミュージシャンの曲の歌詞は、@のチャンネルを多く通過します(作り手のスタンスによる影響)。

3. 映像の想像力で作詞する
ここでかつての僕は、「歌詞メディアの形式が歌詞の内容に影響を与える」という前提を導入しました。
歌詞が@〜Cのそれぞれのチャンネルを通る比率のあり方(フェーズ2のあり方)が作詞段階(フェーズ1)に影響し、それによって歌詞の内容が変化するという前提です。
この前提に基づけば、@〜Cという歌詞メディアの形式が、それぞれに固有の想像力を作詞者に喚起し、それぞれの形式に適合的な内容を持った歌詞を作らせるということになります。

そこで僕の中に一つの疑問が生じました。
それは、「映像技術が普及し、BCの形式の歌詞表現が一般的なものとなってから長い時間がたつのにもかかわらず、世の中の作詞者は未だに@Aの想像力で歌詞を作り続けているのではないか」ということです。
僕の「前提」に基づけば、「BCの形式の歌詞表現が一般的なものとなっている」という事実から、「BCの形式に固有の想像力で歌詞が作られるはずだ」と推論できます。
しかしながら、自分が世の中の歌詞を見るに、そうなってはおらず、むしろ@Aの想像力で歌詞が作られ続けているように思ったのです。

ミュージシャンが@Aの想像力で歌詞を作り続けるのは、一般的な商業音楽の制作プロセスによるものだと思われます。
僕は図2において、@〜Cの歌詞メディアの形式を並列させるモデルを提示しました。
しかし、こうした並列モデルは理論上はありうるものだとしても、社会の現実とは異なるものです。
現実の音楽制作のプロセスでは、下図のように@AとBCを直列に捉える形でのメディア化がなされているものと思います。

【図3】歌詞のコミュニケーションのモデル(直列版)


ここにおいては、メディア化のフェーズがフェーズ2-1(@A)とフェーズ2-2(BC)に分かれており、「@A→BC」の流れができています。
ミュージシャンはまず、ライブで歌うこと(@)、CDのブックレットに書かれた歌詞が読まれること(A)などに照準を合わせて作詞します。
そのため、@Aの歌詞メディア形式は作詞者の想像力、そして歌詞の内容に影響を与えることができます。
しかしながら、そうして出来上がった歌詞を前提にして映像(プロモーションビデオ・テレビの歌番組・カラオケの映像)の制作がなされるため、BCの形式はフェーズ1における作詞者の想像力、そして歌詞の内容に影響を与えにくくなります。
このようにフェーズ2-1とフェーズ2-2が分離していることは、作詞者の想像力、そして歌詞の内容にとって重要な意味を持ちます。

上で述べたように、@は話し言葉という先史テクノロジー、そしてAは文字という古代テクノロジーに基づく歌詞形式です。
映像技術が普及してから歴史が長いのにもかかわらず、@Aの想像力が作詞を支配し続け、BCの想像力による歌詞は一般的なものとなってこなかったように思いました。
これは実のところ当たり前の展開です。
「技術的条件のあり方から、ある社会の状態をストレートに導き出す考え方」は技術決定論と呼ばれ、その有効性に疑問が呈されてきました。
「技術的条件としてはBCの想像力で作られた歌詞が社会で一般的なものとなりうる可能性があるのにもかかわらず、現実にはそうなっていない」ことは、技術決定論的な推論のうまくいかなさをあらためて強く認識させるものです。
僕が映像技術の黎明期に生きていたとしたら、思いっきり技術決定論的に将来の歌詞のあり方を予言し、見事にハズしていたかもしれません。
しかしながら、「技術的条件のあり方から、ある社会の状態をストレートに導き出す考え方」は、たとえ過去の分析や将来の予測にはうまくいかないとしても、未来を作り出すこと、すなわち新しいコンテンツや社会のあり方を構想することにおいては有用であると僕は思います。
ここにおいて次の問題意識が表れます。
「このまま古代テクノロジーの想像力で作詞してていいの? 映像の想像力で作詞することにより、歌詞を変容させていくべき」

4. 歌詞の「映像に対する依存性」を高める
「映像の想像力で作詞する」という課題を設定するとしても、そうした「映像の想像力」をどうやって歌詞の中に明瞭な形で具体化すればいいのでしょうか。
そこで僕がとった方策は、歌詞の「映像に対する依存性」を高めることです。

このことについて説明するために、まずここで「コンテンツのメディア依存性」の概念を導入します。
僕のいうメディア依存性とは、「あるコンテンツの表現が、特定のメディアのもつ性質に依存する度合い」のことです。
ここでは、小説で用いられる叙述トリックを例にとって説明します。
よく使われるのは、「読者には登場人物の姿が見えない」ことを利用したトリックです。
例えば、ある登場人物をまるで女であるかのように描写し続けて読者をだました後、ある時点で男だとバラすことによって、読者に「な、なんだって――――――――!!」という驚きを抱かせるものです。
このトリックは、「文字だけでストーリーが描写される」小説というメディアの特質に依存するものです。
この小説をテレビドラマ化あるいは映画化する際には、このトリックをそのまま用いることはできません。
ドラマや映画では登場人物の姿が視聴者に見えてしまうため、著者がトリックを仕込んだ人物が男であることが見た目ですぐに分かってしまうからです。
本テキストでは、こうした状態について「このトリックは、小説に対するメディア依存性が高い」と表現します。
逆に、同じ小説であっても、叙述トリックのような特殊なテクニックを用いていない部分のストーリーは、一般的におおよそドラマ・映画のシナリオとして移行させ、メディアミックスすることができます。
こうした状態について、「このストーリーはメディア依存性が低い」と表現します[注2]。

さて、ここで本テキストの主題である歌詞のメディア依存性に話を戻します。
僕は冒頭で、歌詞メディアの四類型@〜Cを提示しました。
本テキストの文脈において、ある歌詞のメディア依存性の度合いは、当該の歌詞がこの@〜Cのうちのいくつに依存しているかによって表すことができます。
この度合いは理論上、最もメディア依存性が低い状態(依存している類型が4個の状態)から、最もメディア依存性が高い状態(依存している類型が1個の状態)まで4段階あることになります
これを式で表すと、「1≦歌詞のメディア依存性≦4」になります(依存している類型の数が0個だと、そもそもメディア化がなされていないということになってしまうので0個の場合については除外します)。
「歌詞が依存する類型の数」と「歌詞のメディア依存性の高さ」との関係を表にすると、下のようになります。

【表】「歌詞が依存する類型の数」と「歌詞のメディア依存度」
歌詞が依存する類型の数 4 3 2 1
歌詞のメディア依存性の高さ 1 2 3 4
低←メディア依存性→高


一般的な商業音楽の歌詞はメディア依存性が低く、@ABCの全ての形式で表現することができ、また実際に表現されています。
ある一つの歌詞がライブで歌われ、CDのブックレットに書かれ、プロモーションビデオ・ライブビデオが制作されます。
「歌詞の『映像に対する依存性』を高める」ということは、BCへの依存性を高める形で作詞するということです。
裏返すと、@Aでは表現できないような歌詞にするということでもあります[注3]。
歌詞の「映像に対する依存性」を高めた状態として考えられるのは、論理的に次の3つです。
(1)歌詞がBに依存している(メディア依存度は4)
(2)歌詞がCに依存している(メディア依存度は4)
(3)歌詞がBCに依存している(メディア依存度は3)

つまり、(1)(2)(3)の3つのオプションのうちのどれかを採用することで歌詞の「映像に対する依存性」を高め、そのことによって「映像の想像力で作詞する」ことを具体的に実現する、ということが僕の考えた方策ということになります。

5. ビジュアルソングという概念
さて、前の節までは歌詞について述べてきました。
しかしながら、僕が作るのは歌詞のみではなく、あくまで歌(歌詞と曲の混合物)ですので、実際には歌詞だけでなく歌にまで視野を拡げて考える必要があります[注4]。
そこで、歌詞について語ってきた本テキストの議論を、ここで一気に歌にまで拡張します。
そうした場合、本テキストの問題は次のように変換されます。
・映像の想像力で作詞する→映像の想像力で歌を作る
・歌詞の「映像に対する依存性」を高める→歌の「映像に対する依存性」を高める

歌の「映像に対する依存性」を高めるということについて言えば、歌詞の「映像に対する依存性」を高める方向性だけでなく、曲の「映像に対する依存性」を高めるという方向性も考えられます。
すなわち、歌詞・曲の両面から、歌の「映像に対する依存性」を高め、映像の想像力で歌を作ることを目指すことができます。

ここで本テキストでは、ビジュアルソングという概念を提示したいと思います。
ビジュアルソングとは、映像の想像力で作られた歌のことです[注5]。
ビジュアルソングは、「歌を主体とした映像である」という点においては、既存のB(プロモーションビデオ、ライブビデオなど)・C(テレビの音楽番組やカラオケ映像など)形式の映像と同じです。
異なるのはコンセプトです。
既存の映像は、図3に示したような「<作詞・作曲>→<音声・テキスト>→<映像>」という直列モデルの発想に基づく形で作られます。
こうした発想のもとでは、映像化のフェーズは作詞・作曲のフェーズに影響を与えにくくなります。
また、まず音声・テキストとしての歌を作ることが前提となっているため、歌の「映像に対する依存性」を高めようとする考えが生じにくいです。
「プロモーションビデオ」という言葉には、「<所与としての音声>→<音声の拡張としての映像>」という関係が表れています。
ビジュアルソングのコンセプトは、そうした関係性を逆転させるものです。
ビジュアルソングは図2のような「<作詞・作曲>→<音声 or テキスト(+音声) or テキストなし映像 or テキストあり映像>」という並列モデルの発想に基づいており、音声・テキストを所与のものとはしていません。
作詞・作曲のフェーズと映像化のフェーズがダイレクトに結びつくため、映像化のフェーズは作詞・作曲のフェーズに大いに影響を与えることができます。
さらに、音声や「テキスト(+音声)」の形式でメディア化をする必要がないので、「映像に対する依存性」が高く、音声やテキストでは表現できない歌を作ることができます。
ここにおいては、「<所与としての映像>→<映像を前提に作られる、パーツとしての音声・テキスト>」という関係が成立しています。
余談になりますが、「プロモーションビデオ」のような発想をそのままビジュアルソングに適用するなら、「プロモーションオーディオ」なるものが成立します。
これはつまり、メインの商品である映像をDVDやネットでのダウンロードの形で販売し、「プロモーションオーディオ」をラジオやネットで流したりCDで無料配布したりして販促するものです。

さて、最後にビジュアルソングのコンセプトをまとめます。
下図のようなツリー状の階層構造で示すと分かりやすいと思います。

【図4】ビジュアルソングのコンセプト


この図における上下の階層構造は、「目的―手段」の関係を表しています。
上の階層のタスクを実現するための手段として下の階層があるという関係です。
この図の階層はさらに分岐させていくことができると思います。
特に図の一番下の階層を実現するための手法として、いろいろなことを具体的なレベルで考えていく必要があります。

6. おわりに
さて、ロジックを積み重ねてやっと最後まで到達しました。
音づれない次作ももちろんビジュアルソング形式で作られています。
来月から来世の完成を目途に現在鈍意制作中ですので、ボクのこと、忘れてくださいっ!(((o(*゚▽゚*)o)))




[注1]
音声を伴わないテキストのみの歌詞受容(例えば「CDを聴かずにブックレットだけ読む」)も歌詞受容の一つの形式です。
本テキストの類型論は「音声を伴った歌詞」(一般的に「歌」だと認識される形式です)についてのものではなく、あくまで歌詞についてのものですので、この「音声を伴わないテキストのみ」の形式ももちろん視野に入ることになります。

[注2]
僕がメディア依存性ということを強く意識するようになったのは、『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』(エルフ、1996→2000年)、『ONE 〜輝く季節へ〜』(Tactics、1998年)、『最果てのイマ』(ザウス、2005年)などの名作エロゲをプレイした経験によります。
これらの作品においては、ゲームのシステムとシナリオを強くリンクさせようという試みが非常に効果的な形でなされています。
すなわち、「ゲーム以外のメディア(小説、漫画、ドラマ、映画ほか)では表現できないようなシナリオ」になっているのです。
このことを本テキストの言葉で表現すれば、「これらの作品のシナリオはゲームというメディアへの依存性が高い」ということになります。

[注3]
論理的にはもちろん、@Aへの依存性を高める形で作詞すること、すなわち「歌詞の『音声・テキストに対する依存性』を高める」という方向性をとることもできます。
裏返すと、映像では表現できないような歌詞にするということです。

[注4]
「最初からダイレクトに歌について論じた方がよかったのでは?」とも考えられます。
あえて歌詞に焦点を当てて語ってきたことには次の二つの理由があります。
まず第一に、自分が実際に考えたプロセスを記述することで、本テキストにリアルさを持たせることができると考えました。
そして第二に、歌詞に照準を絞って記述したほうが論旨を単純化できると考えました。

[注5]
「ビジュアルソング」という言葉は、エロゲにおける「ビジュアルノベル」から転用したものです。